慈悲深さは国によって違う?タイ人が「血も涙もない」と思う場面

壁絵









「微笑みの国」タイに住んで12年目になります。タイに1度でも遊びに来たことがある人は、タイ人は親切で優しくて親しみやすいという印象を受けた人が多いのではないかと思います。

確かにその通りなのですが、タイ人の「思いやり」や「慈悲の心」は日本人のものとは少し違うような気がします。

タイ語で「慈悲の心がある」を「ミー・ナムジャイ」と言い、「慈悲深くない、血も涙もない」を「マイ・ミー・ナムジャイ」と言います。日常生活の会話で時々出てくるのですが、「あれ、そこで使うの?」と言うことがよくあります。

今回は私が実際「マイ・ミー・ナムジャイ」を耳にした意外な場面をいくつか紹介します。

隣人の庭で牛の放牧

牛

タイでは無断で他人のものを使ったりすることがよくあります。散々使った後「借りたよ。」なんて事後報告も日常茶飯事です。勝手にものを使われたりすることにはすっかり慣れましたが、ある友人の話にはとても驚きました。

彼女はタイ人の旦那さんと2人暮らしで、広々とした庭のある大きな家に住んでいました。周りは山や田んぼに囲まれていてのどかなスローライフを満喫していました。

ある時から、近所で牛を飼っている人が彼女の家の庭に牛を放牧するようになってしまいました。どうやら、彼女の庭には牛のエサになる草がたくさん生えていることや、ゲートとフェンスで囲まれているので放牧しても牛が逃げて行かないという理由で牛を連れてきたようです。

彼女や旦那さんには何の断りもなかったそうです。毎朝8時ごろ連れてきて、夕方5時ごろ引き取りに来ます。

最初のころは彼女も黙っていましたが、自分の庭が牛のふんだらけになっていくことに腹を据えかねて、そのご近所さんに止めるように言ってと旦那さんに頼みました。ところが旦那さんはご近所トラブルになるのが嫌なのかなかなか話に行きません。

「もう私が自分で行く!」と彼女が1人で話をつけに行きました。その際にそのご近所さんから浴びせられた言葉が「マイ・ミー・ナムジャイ!」なのです。私は思わず「えーっ!どっちが!?」と口にしてしまいました。

しかしご近所さんの言い分は「そんなに土地が余っているんだから、隣人に使わせてもいいだろう。」でした。結局彼女が自分の言い分を通して、牛が庭に連れて来られることはなくなりましたが、近所からは「あそこの奥さんはマイ・ミー・ナムジャイ」だという噂が流れたそうです。

店の前に止まる車

ブッダ

タイは都会や街の中心でなければどこにでも車を駐車することができます。人の家の前でも店の前でも止める人がたくさんいます。

時にはある店の真ん前で止めて、違う店に行く人すらいます。でもそれに文句を言う人もあまりいません。日本だったらあり得ないことですよね。店の前に止めるなんて完全な営業妨害です。しかし、タイだと「慈悲深い心で受け入れてもいいだろう」ということになりかねません。

ある時友人の店の前に車を止めてそのまま出かけてしまった人がいました。3時間後にその人が戻ってくるまでその車を動かすこともできず、タイ人の友人もさすがに苛立っていました。

それでもタイ人は声を荒げたり、怒ったりすることが嫌いなので、車の持ち主にも穏やかに話していました。

友人が店の前に車を止めないでとその持ち主に言うと、「マイ・ミー・ナムジャイ!」と反対に言い返されました。「ちょっと車を止めるぐらいいいだろう!」とでも言いたいようです

それを聞いた友人もかなり腹が立ったと思いますが、あくまでも穏便に話を済ましていました。もし私に同じことが起こったら、確実に爆発していたでしょう。

宿題を見せないと慈悲深くない?

宿題

タイの学校では「宿題は人のものを写す」という考えが当たり前です。「写す」方も「写される」方もそれに対してネガティブな感情は抱かないようです。

私は学校の先生をしています。タイの学校は宿題がとても多く生徒たちはいつも課題に追われています。私は生徒たちに宿題は出しません。宿題を出しても意味がないからです。

たいてい1クラス40~50人ですが、その内宿題をする生徒は3人くらいです。残りの生徒は宿題をした生徒のノートを写させてもらうのです。みんなが同じ答えを書くので宿題を写したかどうかは一目瞭然です。なんのひねりもなくそのまんま友達の宿題を写して堂々としています。

グループワークでも同じです。5人1組のグループを作って研究テーマを出しても、グループの1人がするだけで、残りは何もしません。これでは意味がないと思い、私は宿題やグループワークをさせることをやめました。

いつも真面目に宿題をしている子に「友達に宿題を写されて嫌じゃないの?」と聞きました。その子がやりたいことや好きなことを我慢して一生懸命宿題しているのに、その間遊んでいた友達にその宿題を写させてあげるなんてとても不公平に思えたからです。

でもその子は「別に平気です。」と装っているわけでもなくそう答えるのです。「もし宿題を見せないとマイ・ミー・ナムジャイって言われる。」のだそうです。私はタイ社会の歪みが見えたような気がしました。

小さな子どもの口から「マイ・ミー・ナムジャイ!」

鉛筆

タイでは「みんなでシェアする」という考え方が一般的で、「シェアしない人」=「マイ・ミー・ナムジャイ」という思われることが多いようです。

私は小学校低学年の子どもたちも教えています。子どもたちの会話を聞いていると「マイ・ミー・ナムジャイ」と言う言葉が時々出てきます。

例えば友達が消しゴムを貸してくれなかったときや、お菓子を分けてくれなかったときです。自分が消しゴムを忘れたことや自分のお菓子をもう食べてしまったことはすっかり棚の上です。

理由は何にせよ「シェアをしてくれない」ことが彼らにとって「マイ・ミー・ナムジャイ」なのです。

授業の後はいつも教室の中に鉛筆や消しゴムが散乱しています。みんな勝手に他人の文房具を使いまわすので、授業が終わるころには筆箱が空っぽになっていることが多いのです。それを大して気にすることもなくそのままみんな帰って行きます。私はいつも散らばった文房具を拾い集めます。

文房具やお菓子はシェアして当たり前という考え方なのでしょう。その代り、「自分のもの」という意識が低いからかきちんと片付けることもあまりしないようです。

「マイ・ミー・ナムジャイ」の乱用

ベル

「マイ・ミー・ナムジャイ」を耳にした意外な場面をいくつか紹介しましたが、本当に日本人が理解できる「ミー・ナムジャイ」の人もたくさんいます。

しかし私はタイ人は「マイ・ミー・ナムジャイ」というセリフを乱用し過ぎではないかと思います。自分の非は思いっきり棚に上げて、他人に責任転嫁してるようにしか見えません。「自省」と言う感覚は薄いようです。

自分が悪かったと認めても「マイペンライ(問題ない)」で済ます人も多く、自分にとても甘いのです。

でも自分に甘いからこそ、他人に対しても割と寛容な心で接することができるのかもしれません。「微笑みの国」の「微笑み」はこういう自分に甘く、他人にも甘い上に成り立っているのではないかと思います。

まとめ

今回「マイ・ミー・ナムジャイ」の記事を書くに至って、私の生徒たちに宿題やグループワークを他の人に写されることをどう思っているのか改めてディスカッションしました。意見は2つに分かれました。

1つ目は宿題を見せてと言われても見せない少数派の意見です。「マイ・ミー・ナムジャイ」と友人からは言われますが、別に言わせておけばいいと言う気持ちで、別に言い返したりはしません。宿題を写させることもしません。

2つ目は大半の意見で、宿題を友達に見せるのは全く平気だそうです。自分が宿題をやっていないときにも写させてもらえるから、いわば「助け合い」なのだそうです。助けられるものは助けて当然、助けが必要な時は助けを求めるのが当然なのです。

そこには「相手の立場に立って考える」と言うことが抜け落ちているような気がしますが、そういう助け合いができることを「ミー・ナムジャイ」と言うのかなと私なりに解釈しています。